- はじめに
- 1916-08-21 夏目漱石
- 1916-08-22 芥川龍之介
- 1916-08-22 久米正雄
- 1916-08-24 夏目漱石
- 1916-08-28 芥川龍之介
- 1916-08-28 久米正雄
- 1916-09-01 夏目漱石
- 1916-09-02 芥川龍之介
- 1916-09-02 久米正雄
- 1916-09-02 夏目漱石
- あとがき
はじめに
夏目漱石による書簡については、『定本 漱石全集』第24巻から転載しました。芥川龍之介・久米正雄の書簡については、昭和女子大学図書館デジタルアーカイブ「芥川龍之介 久米正雄(夏目漱石宛)書簡」から翻刻しました。同アーカイブには漱石側の書簡も写真が掲載されています。
昭和女子大所蔵の書簡については、平野晶子「芥川龍之介 夏目漱石宛書簡(昭和女子大学図書館蔵)について」に整理されているとおり、全集未収録書簡として過去に紀要上に翻刻が掲載されたり、出版物に掲載されたりしているものの、「内容に影響するような大きな相違はないが、多少の語句(字句)の相違や、原書簡では読点がわりに用いられている一字空きの部分がすべて読点となっている、改行がなされていない部分がある、踊り字でない部分が踊り字になっている、など、細かい相違が数多く見られる。原書簡からの翻刻が今一度必要と思われる」とあります。このあたりのことは、文学研究ブログの大先輩「やぶちゃん」こと藪野直史さんのブログ記事芥川龍之介書簡抄63 / 大正五(一九一六)年書簡より(十) 夏目漱石宛二通(注で第一通目の漱石の返事と、第二通目と行き違いになった漱石の「芋粥」の感想を書いた芥川龍之介個人宛書簡を添えた)でも「これは芥川龍之介の旧全集中の唯一の漱石宛書簡なのであるが、芥川龍之介が書簡で句読点を規則的に打つというのは、全く以って特異点で、これらは転載元の編者の添えたものである可能性が頗る高い」と注がしてあるところです。「あとがき」に書いたとおり私は漱石関係者の書簡を読む作業をしているところなのですが、ふとこのブログ記事を面白く読んだことを思い出して、改めて調べてみたところ、電子化公開されていることを知って翻刻してみようと思った次第です。
ともあれ、みんなで牛になろう。話はそれからだ。
1916-08-21 夏目漱石
あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。僕は不相変「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、此三つをかねてゐます。存外涼しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出来ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出来るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絶句に纏めましたから夫を披露します。久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。
尋仙未向碧山行。住在人間足道情。明暗双双三万字。撫摩石印自由成。
(句読をつけたのは字くばりが不味かつたからです。明暗双々といふのは禅家で用ひる熟字であります。三万字は好加減です。原稿紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あります。だから百回に見積ると十八万字になります。然し明暗双々十八万字では字が多くつて平灰が差支へるので致し方がありません故三万字で御免を蒙りました。結句に自由成とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)
一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隠遁するならあの位ぢゃ不充分です。もつと景色がよくなけりや田舎へ引込む甲斐はありません。
勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可〔いけ〕ません。たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。是は両君とも御同感だらうと思ひます。
今日からつく〳〵法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。
私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ証拠に書くのです。さういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋つてゐます。以上
八月二十一日 夏目金之助
久米正雄様
芥川龍之介様
1916-08-22 芥川龍之介
封書
消印□・8・23 千葉県一ノ宮海岸一宮館 芥川龍之介 久米正雄
先生
原稿用紙で ごめんを蒙る事にします。
ここへ来てから もう 彼是一週間ばかりになりました。午前は勉強して 午後は海へはいると云ふ事にきめては居りますが 午前の日課は ひるねをしたり 駄弁をふるったりして 兎角 閑却されがちです 殊に 新思潮の原稿を書いてしまつてからは まるで解放されたやうな のんきな心もちになつてしまつたので 義理にも 金儲けの翻訳には手をつける気になれません。勉強と云つても実は この翻訳が 大部分をしめてゐるのです。
昨日 新小説の校正が来ました。校正でだけ見た所では、どうも失敗の作らしいので 大にまゐつてしまつて居ります。私は いつでも 一月ばかりたつた後でないと 自分の書いたものが どの位まで行つてゐるのだかわかりません。さうすると 今 まゐつてゐると云ふのが 矛盾のやうですけれど まだ失敗したのだか どうだかわからない わからないと思ひながら それでも どうも失敗したらしいので まゐつてしまふのです。実際 校正しながらも 後から後から 気になる所が出て来るので 何度 赤インキの筆を抛り出して ねころんでしまつたかわかりません。久米が そばから大に鼓舞してくれるのですが 気になるのは 人の評価でなくて 自分の評価ですから 困ります。尤も 自分の評価も 全然 人の評価に左右されない事はなささうですが。
くだらない事を 長く書きました。何だかこのまゐつてゐる心もちを 先生へ訴へたいやうな気がしたからです。さうでも さして頂かなければ 妙に気がめいつて やりきれません。
しけだものですから 宿屋は 大抵毎日 芋ばかり食はせます。小説も芋粥ですから 私は 芋に祟られてゐるのでせう。
女中にやる祝儀が少かつたものと見えてあまり優待されては ゐません。或は 虐待されてゐると云つた方が 適当なのでせう。朝 戸をあけたり 床をあげたりするのまで 自分でやらせられるのですから。今朝なぞは 顔を洗ふ水を 何時までも持つて来てくれないので 大に弱りました。
ここまで 書いた時に 先生の御手紙がつきました。私たちも 如何に閑寂な日を送ってゐるか 御しらせする為に 久米のスケツチ三枚と 私の妙な画とを 御送りします。私の詩は とても先生の塁は摩せさうもありませんが 将来に於て 私の絵は(先生位私が年をとつたら)先生の達磨に肩随する事が出来るかも知れないと思ひます。
先生の所の芭蕉は もう葉がさけかかつたでせう。ここの砂浜にある弘法麦も 焦茶色の穂をみだすやうになりました。「砂に知る日の衰へや海の秋」これは私の句ですが 久米三汀宗匠の説によると 月並ださうです もう一つ「砂遠し穂蓼の上に海の雲」と云ふ句もふらふらと 出来ました。詩は ここに円機活法がないので 作れません。作っても 御披露する気にはなれないでせう。詩を頂いた御礼に 句と画とを御覧に入れる事にして この手紙をおしまひにします。
八月廿二日
芥川龍之介
1916-08-22 久米正雄
前便と同封。同種の原稿用紙を使用
八月廿二日、一ノ宮にて、 久米正雄。
先生。
只今二人で先生への手紙を書きかけた処へ、先生からの御封書を頂き、難有く拝見しました。それで又改めて書き出しましたから、形式は御返事を差上げると云ふことになりますが、実質はいろ〳〵な事を只並べて、永い日を持っておいでになる先生を、よく云へばお紛らせ申し、悪く云へばお悩ませ申さうと云ふに過ぎません。
此処の此の泊つてゐる処は、宿で別荘と称してゐる離室で、十畳の間を二人で占領して居ります。一昨日まで隣りの六畳に人がゐましたが、毎日の僕らの駄弁と宿料の高いのに閉口して移つて了ひました。見た所からして肺結核だとわかるやうな若い人だったので、同情はしましたが、其同情を行為にして現はすには或種の危倹*1を感じました。それで今は此の別荘は僕ら二人の跳梁に任せてある、従って夜なぞは議論でひどく大きな声を出すことも珍らしくありません。昨日も芥川が芸術に於ては表現が全部で、思想は其僅少なパートを取るに過ぎないと云ひ出し、一方が何か云へば他は必ずこれに一応は反対すると云ふ、吾々の悪い癖で、早速議論になって了ひ、詭弁と挙げ足取りの競争をしました。要するに議論のための議論なので、其侭物別れになりました。が、恐らく二人とも其時は勝つたつもりでゐた事でせう。これも永い日のさせる咎です。
此頃芥川は新小説へ出した小説に不安を感じ出して、「参った、参った」と云ひつゞけて居ります。僕がいくら慰め(少し語弊がありますが)たって只「参った、参った。」と云ってるばかりです。それが全然自分にばかり対して感じる不安かと云ふと、まんざらさうでもないらしく、まづ対外的な意味も幾分含んだ、ひどく復雑したらしいものなので、僕が他人が見たらまづお座なりに近いかも知れない言葉で何とか云つても、回復すべき道はないのです。こんな時、僕が何と云った処で芥川の不安はなほらないのでせうが、僕も只うっちゃって置くわけに行かないから、効果がないと知りつゝ慰めなくちゃならない、ごく苦るしい立場にゐます。そこへ来た先生のお手紙は彼の心持を引立てるのに、今重大な効目をあらはしました。その点だけでも御礼を申し上げなくてはなりません。昨日は彼の友人から来た手紙に、愛情を誇張した文句があったと云ふので、それをひどく気にしたりして、困りました。天才をお傅り〔おもり〕するのは、ひどく骨の折れるものです。
彼の小説は、僕の見た処、決して悪るくないのです。悪るい処か、いろ〳〵な美点は、それを彼の作としても傑作にしてゐます。心配することはないのです。尤もそれに心配することは彼の芸術的良心の鋭さを証明するのですが、心配する甲斐のない心配に囚はれてるのは決していゝ事ぢゃなからうと思ひます。併しこれも一時の心の状態で、やがて又非常な元気になるでせう。
非常な元気と云へば二三日前まで彼は非常な元気で、今月の新思潮の小説をとう〳〵書けずに了った僕の前で、「圧倒してやる」と呼号し乍ら二つほど短篇を書きました。而して書けないでゐる僕に、「すっかり尊敬を失った」なぞと激励に似た嘲罵を加へたりした位でした。勿論こんな言葉は平常お互に云ひ合ってゐるのですが、偶々以て当時の彼の意気の軒昂を証明してゐるでせう。彼もやがて此軒昂に帰るだらうと思ひます。
と云ふと彼が全然しよげてるやうですが、さうでもないのです。つまり彼の云ふ如く、絶対のものには飽く迄謙遜であるが、相対のものにはさうであり得ないのです。処が一の宮には其相対的なものが沢山ないので、不遜になりうる機会が少ないのだらうと僕は解釈して居ります。
全く、東京を離れると善悪両極の意味の剌戟を失つて了ひます。今日で六七日新聞を見ないでゐた為、世間がどうなったか、赤木君の一波から万波を惹起したらしい遊蕩文学問題がどうなつたか、まるでわからずにゐます。「明暗」もお延が家へ帰つて小女から外套を取りに来た例の文士君(コノ人の名を忘れました。芥川も思ひ出せないのでやむを得ずかう書きます。)の話を聞く所で、東京へ置いて来ましたが(纏めて見るつもりで放つて置いたのです)、昨日偶然此処の交友倶楽部といふ玉突場で、文士君がお延を尋ねて来て、話をしてゐる処を一回読みました。久しぶりで見たので、妙な慕しさを感じました。挿絵は心臓の中に「昔」と云ふ字が釣針のやうなものに引懸かつてゐるのでした。どうも春仙の画は不可ません。
僕らの此処での生活は、日課として午前中は水野君流に云ふと創作といふ事に決めてあるのですが、此頃は呆然ねころんで本を見る位なものです。芥川はゾログーブの短篇集を読み上げました。私はベルグシュトロームと云ふ丁枺〔丁抹=デンマーク〕の戯曲を読んでゐます。かう申しましても、決して片仮名に盲従してゐるのではありません。先づ僕等なりに批判を以て接してゐます。芥川はゾログーブを軽蔑し出しました。僕だつてベルグストローム位には行ってるつもりです。(尤もつもりだけかも知れませんが。)
午後は海へ入ります。僕は泳げませんから、胸位の処で波に背をうたして居ります。併しそれだけでもなか〳〵面白うございます。波が来るとそれに乗る、又は潜る。只それだけの事を繰り返してゐるのですが、それだけで面白いのは妙です。私は今初めてある作家が同じやうな材料で、同じやうな描写を繰り返し乍ら、満足してゐるのも尤もだと覚りました。
夜は早く寝ます。が寝る前に必ず芥川の駄弁を拝聴します。その駄弁が非常に芸術的な場合もありますが、芥ほどの駄弁家でも毎日はさうは行きません。
よく二人で歌と俳句とを作ります。芥川の説によると咳唾玉を成してるんださうですが、玉石をなすと云った方が真実です。即ち私のは玉で芥のは石なのです。唯今先生の漢詩に対して其玉をお目にかけ度いのですが、さうすると芥川の石までお目にかけなくちやならないので、彼が承知しません。惜しいことです。その代り私のスケッチを三枚ほど御笑覧に供します。小説より絵の方がうまいなぞと仰られる怖れがあるので、ワザと下手に書きました。三枚の中一つだけは物になつてゐるかも知れません。あとは余りリアリスチツクで、大下藤次郎式です。併し石井柏亭位には行ってませんかしら。何しろ此処にはスケツチブツクを売つてゐないので、こんな子供の使ふ紙へ書くのですから、色の出つこはありません。
御漢詩、私にも解つて面白く拝見しました。私も作りはしませんが、拝見するだけなら、拝見ができます。
時々、東京の灯を思ひ出します。その時の趣味は中学生位と大した変りがありません。先づパウリスタのコーヒーが飲みたいとか、資生堂のアイスクリームが食ひたいと云つた類です。
明日あたりから、そろ〳〵糊口のための翻訳にでも取かゝらなくてはなりません。
先づは下らぬ事のみ、羅列致しました。今日はこれでご免下さい。失礼の段は平らに御容赦を願ひます。
1916-08-24 夏目漱石
此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙がまありに〔あまりに〕溌溂としてゐるので、無精の僕も〔も〕う一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです。
今日は木曜です。然し午後(今三時半)には誰も来ません。例の滝田樗陰君は木曜日を安息日と自称して必ず金太郎に似た顔を僕の書斎にあらはすのですが、その先生も今日は欠席するといつてわざわざ断つて来ました。そこで相変らず蝉の声の中で他から頼まれた原稿を読んだり手紙を書いたりしてゐます。昨日作つた詩に手も入れて見ました。「癒狂院の中より」といふ色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿を読ませられました。中々思ひ付きを書く人があるものです。
芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立体俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り画は久米君の方がうまいですね。久米君の絵のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(タ陽の景?)は大変うまい。成程あれなら三宅恒方さんの絵をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて呉れませんか。(本当にいふのです)。同時に君がたは東洋の絵(ことに支那の画)に興味を有つてゐないやうだが、どうも不思議ですね。そちらの方面へも少し色眼を使つて御覧になつたら如何ですか、其所には又そこで
満更でないのもちよい〳〵ありますよ、僕が保証して上げます。
僕は此間福田半香(華山の弟子)といふ人の三幅対を如何〔いかが〕はしい古道具屋で見て大変旨いと思つて、爺さんに価を訊いたら五百円だと答へたので、大いに立腹しました。是は絵に五百円の価がないといふのではありません。爺なるものが僕に手の出せないやうな価を云つて、忠実に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云つて、店を出てしまひましたが、其時心のうちでそんならおれにも覚悟があると云ひました。其覚悟といふのを一寸披露します。笑つちやいけません。おれにおれの好きな画を買はせないなら、已を得ない。おれ自身で其好き〔な〕画と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と斯ういふのです。それが実現された日にはあの達磨などは眼裏の一翳です。到底芥川君のラルブルなどに追ひ付かれる訳のものではないですから、御用心なさい。
君方は能く本を読むから感心です。しかもそれを軽蔑し得るために読むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。僕思ふに日露戦争で軍人が露西亜に勝つた以上、文人も何時迄恐露病に罹つてうん〳〵蒼い顔をしてゐるべき次第のものぢやない。僕は此気焔をもう余程前から持ち廻つてゐるが、君等を悩ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、 一遍丈は黙つて聞いてお置きなさい。
本を読んで面白いのがあつたら教へて下さい。さうして後で僕に借して呉れ玉へ。僕は近頃めちや 〳〵で昔し読んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレーム オフ ライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに読んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすつかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で評が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。
きのふ雑誌を見たらシヨウの書いた新らしいドラマの事が出てゐました。是はとても倫敦で興行出来ない性質のものださうです。グレゴリー夫人の勢力ですら、ダブリンの劇場で跳ね付けたといふ猛烈のもので、無論私の刊行物で数奇者の手に渡つてゐる丈なのです。兵隊がV、C、を貰つて色々なうそを並べ立て、景気よく応募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。シヨウといふ男は一寸いたづらものですな。
一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ残した事があるやうだけれども。
あゝさうだ。〳〵。芥川君の作物の事だ。大変神経を悩ませてゐるやうに久米君も自分も書いて来たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。決してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな訳のあり得ない作風ですから大丈夫です。此予言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります、適中したら僕に礼をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。
牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬にはなりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老猾なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせつては不可〔いけま〕せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うん〳〵死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出てきます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
是から湯に入ります。
八月二十四日 夏目金之助
芥川龍之介様
久米正雄様
君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は気にしないでも構ひません。
1916-08-28 芥川龍之介
封書
消印 □・8・28 東京牛込区早稲田南町七 夏目金之助様 ※「一宮局 不足」と送料が不足していた印あり
消印 牛込5・8・29 千葉県一ノ宮海岸 一宮館 二人
先生
また 手紙を書きます。嘸 この頃の暑さに 我々の長い手紙をお読みになるのは 御迷惑だらうと思ひますが これも我々のやうな門下生を持つた因果と御あきらめ下さい その代り 御返事の御心配には及びません。先生へ手紙を書くと云ふ事がそれ自身 我々の満足なのですから。
今日は 我々のボヘミアンライフを 少し御紹介致します。今ゐる所は この家で別荘と称する十畳と六畳と二間つづきのかけはなれた一棟ですが 女中はじめ我々以外の人間は 飯の時と夜 床をとる時との外はやつて来ません。これが先 我々の生活を自由ならしめる第一の條件です。我々は この別荘の天地に ねまきも おきまきも一つで ごろごろしてゐます。来る時に二人とも時計を忘れたので 何時に起きて何時に寝るのだか 我々にはさつぱりわかりません。何しろ太陽の高さで 略々 見当をつけるんですから 非常に「帳裡日月長〔」〕と云ふ気がします。それから 甚 尾籠〔おこ〕ですが 我々は滅多に後架へはいりません。大抵は前の庭のやうな所へ してしまふのです。砂地で すぐしみこんでしまひますから 宿の者に発見される惧などは 万々ありません。第一 非常に手軽で しかも爽快です。さう云ふ始末ですから 部屋の中は 原稿用紙や本や絵の具や枕やはがきで 我ながらだらしがないと思ふ程 雑然紛然としてゐます。私は本来久米などより余程きれいずきなのですが この頃はすつかり悪風に感染してしまひました。夜はそのざうもつを 隅の方へつみかさねて 女中に床をとつてもらひます。ふとんやかいまきは 可成清潔ですが 蚊帳は穴があるやうです。やうですと云ふのは 何時でも中に蚊がはいつてゐるからで 実際 穴があるかどうか 面倒くさいから しらべて見た事はありません。その代り 獅噛火鉢を一つ 蚊帳の中へ入れて その中で盛に 蚊やり線香をいぶしました。久米の説によると いぶしすぎた晚は あくる日 頭が痛いさうです。ではよさうかと訊きますと 蚊に食はれるよりは 頭痛のする方がまだいゝと云ひます。そこで やはり毎晩 十本位づつ 燃やす事にきめました。頭痛はしないまでも いぶしすぎると 翌日 鼻の穴が少しいぶり臭いやうです 線香さへなくなれば もういい加減にやめてもいいのですが こてこて買つて来たので 中々なくなりさうもありません この頃は それが少し苦になり出しました。
海へは 雨さへふつてゐなければ 何事を措いてもはいります。ここは波の静な時でも 外よりは余程大きなのがきますから 少し風がふくと 文字通りに 波濤洶湧します 一昨日 我々がはいつてゐた時でした。私が少し泳いで それから背の立つ所へ来て見ると どうしたのだかゐる筈の久米の姿が見えません 多分先へ上つたのだらうと思つて 砂浜の方へ来て見ますと 果してそこにねころんでゐました。が いやな顔色をして 両手で頭*2をおさへながら うんうん云つてゐるのです 久米は心臓の悪い男ですから どうかしたのかと思つて 心配しながら訊いて見ますと 実は 無理に遠くまで泳いで行つた為にくたびれて帰れなくなつた所へ 何度も頭から波をかぶつたので 大へん苦しんだのださうです さうして あまり鹹い水をのんだので もうこれは駄目かなと思つたのださうです。では又 何故そんなに遠くへ行つたのだと云ひますと 女でさへ泳いでゐるのに 男が泳げなくつちや外分〔外聞〕がわるいと思つて 奮発したのだと云ふ事でした。つまらない見えをしたものです。事によると この女なるものが 尋常一様の女ではなくつて 久米のほれてゐる女だつたかもしれません。
女と云へば きれいな女は一人もゐませんが 黒の海水着に 赤や緑の頭巾をかぶつた女の子が 水につかつてゐるのはきれいです。彼等は 全身が歓喜のやうに 躍つたり 跳ねたりしてゐます。さうして 蟹が一つ這つてゐても 面白さうにころがつて笑ひます 浜菊のさいてゐる砂丘と海とを背景にして 彼等の一人を ワツトマンヘ画かうと云ふ計画があるんですが まだ着手しません。
画は 新思潮社同人中で 久米が一番早くはじめました。何でも大下藤次郎氏か三宅克己氏の弟子か何かになつたのかも知れません とにかく セザンヌの孫弟子位には かけるさうです。同人の中には まだ松岡も画をかきます しかし 彼の画は 倒〔さかさ〕にして見ても横にして見ても 差支へないと云ふ特色がある位ですから まあ私と五十歩百歩でせう。それでも二人とも ピカソ位には行つてゐると云ふ自信があります。
いよいよ九月の一日が近づくので あんまりいい気はしません。先生にあやまつて頂くよりは 御礼を云ふやうになる事を祈つてゐます
今日 チェホフの新しく英訳された短篇をよんだのですが あれは容易に軽蔑出来ません。あの位になるのも 一生の仕事なんでせう。ゾログウブを私が大に軽蔑したやうに 久米は書きましたが そんなに軽蔑はしてゐません。ずゐぶん頭の下るやうなパツセエヂも たくさんあります 唯 ウエルスの短篇だけは 軽蔑しました。あんな俗小説家が声名があるのなら 英国の文壇よりも 日本の文壇の方が進歩してゐさうな気がします。
我々は 海岸で 運動をして 盛に飯を食つてゐるんですから 健康の心配は入りませんが 先生は 東京で 暑いのに 小説をかいてお出でになるんですから さうはゆきません どうかお体を御大事になすつて下さい。修善寺の御病気以来 実際 我々は 先生がねてお出でになると云ふと ひやひやします。先生は 少くとも我々ライズィングジェネレエシヨンの為に 何時も御丈夫でなければいけません これでやめます
廿八日 芥川龍之介
梧下
1916-08-28 久米正雄
前便と同封。同種の原稿用紙を使用
二十八日。一の宮にて、久米生。
夏目先生。
私どもは相変らず呑気に暮して居ります。尤も呑気とは云つても、極く外面的な意味で、呑気らしい生活の方法を強ゐて取らうとしてゐるだけかも知れません。さし迫つた自分の生活や、自己の天分に対して、さう呑気であり得ない僕は、常に空漠たる焦噪に促はれて〔焦燥に捉はれて〕居ります。先生の「牛になれ」と云ふ御教訓は、此際実に身に染みて感じました。私も根本的な勇気を振ひ起して、行ける処まで根気よく行つて見ます。而して常に仮設敵を予想してゐる僕の争闘的性格を制肘して、ゆつくり人間を押すやうに心掛けます。今日はふいに自分のこれから先きの事を考へて見ました。而してごく平凡な感慨と悲観とを起しました。要するに僕は馬鹿です。只それつきりです。併し馬鹿なりに牛の如く進んで見ます。先生のお言葉で大変落着いた御礼を申し上げるため、つい中学生めいたセンチメンタリズムに陥りました。
絵は此処にワットマンがありませんから、東京へ帰ってから、一生懸命に描いて、いゝのが出来たら、御書斎に一つ懸けて頂くことゝします。暫らく書かないでゐると、物の見方は進んでゐますが、手法上のプラクチスを忘れてゐます。此頃は又一向に描きません。只光線によって日に少くとも七度は色の変る砂丘を、印象主義者のやうに注意して眺めてゐます。
支那の絵を私共が注意しないのは、一つには復製なぞを見る機会のないのと、僕の下らぬ教養が一部の骨董趣味を恐れ過ぎたためです。いつか先生の処で見せて頂いた沈南頻(?)〔沈 南蘋〕の花卉〔かき〕は、可成り佳いのに吃驚しました。あゝ云ふものなら私共も悦んで見、悦んで学びます。
先生の半香の画に逃げ出したお話は、大変面白うございました。笑つてはいけないと書いてあるにも係らず、あとの方の大きな御抱負には、思はず失笑しました。尤も失笑と云ふと語弊がありますが、断じて嘲笑ではありません。嘲笑するには余りに真摯な御決心だからです。而して先生の絵は、半香の塁を摩すると否とに係らず、或る年代を経たらきっと五百円位には吹きかける人もゐるやうになる事も、可成り確かだからです。
此頃の海は至って静かです。静かだと云っても泳ぎのうまくない僕は、時々浪に浚はれて死にさうになります。泳ぎの少しできる芥川は、時々遠くへ出て大川で錬つた腕を双手ぬきで示し乍ら、僕らを尻目に見渡すのださうです。併し海で死ぬとすれば、芥川の方がきっと早く死ぬでせう。今死ぬと天才になるから死ねと云つても、彼はなか〳〵死ぬ気になりません。
立体派の俳句を作るのは僕ではなくて芥です。「凧三角、四角、六角、空、硝子」と云ふのが彼の代表作です。僕のには
秋天や崖より落ちて僧微塵 といふ名句があります。これは決して新らしくないが僕としては中々自信があります。
長くなりますから今日はこれで止めます。
追伸。僕らの生活は芥ので尽きてゐますから、此辺で充分だと思ひます。それに此前のは長すぎて先生の処で不足税を取られやしなかったたかと心配して居る仕末ですから。
1916-09-01 夏目漱石
今日は木曜です。いつもなら君等が晩に来る所だけれども近頃は遠くにゐるから会ふ事も出来ない。今朝の原稿は珍らしく九時頃済んだので、今閑である。そこで昨日新思潮を読んだ感想でも二人の所へ書いて上げようかと思つて筆を取り出しました。是は口で云へないから紙の上で御目にかけるのです。
今度の号のは松岡君のも菊地〔菊池〕君のも面白い。さうして書き方だか様子だか何方にも似通つた所がある。或は其価値が同程度にあるので、しか思はせるのかも知れない。兎に角纏つた小品です。それから可い思付を見付けてそれを物にしたものでもあります。
思ひ付といふと、芥川君のにも久米君のにも前二氏と同様のポイントがあります。さうして前の二君のが「真」であるのに対して君方のが両方共一種の倫理観であるのも面白い。さうして其倫理観は何方もいゝ心持のするものです。
是から其不満の方を述べます。芥川君の方では石炭庫へ入る所を後から抱きとめる時の光景が物足りない、それを解剖的な筆致で補つてあるが、その解剖的な説明が、僕にはひし〳〵と逼〔せま〕らない。無理とも下手とも思はないが、現実感が書いてある通りの所迄伴つて行かれない。然しあすこが第一大切な所である事は作者に解つてゐるから、あゝ骨を折つてあるに違ないとすると、(読者が君の思ふ所迄引張られて行けないといふ点に於て)、君は多少無理な努力を必要上遣つた、若〔もし〕くは前後の関係上遣らせられた事になりはしませんか。僕は君の意見を聴くのです、何うですか。それから最後の「落ち」又は落所はあゝで面白い又新らしい、さうして一篇に響くには違ないが、如何せん、照応する双方の側が、文句として又は意味として貧弱過ぎる。といふのはexpressiveでありながら力が足りないといふのです。副長に対スル倫理的批評の変化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(叙述が簡単な為も累をなしてゐる)強調されてゐない、ピンと頭へ来ない。それが欠点ぢやないかと思ひます。
此所迄書いた所へ丁度かの水野秀雄先生が来ました。(先生はしきりに僕の作物の悪ロを大つぴらに云ふので恐縮します。然し僕はあの人を一向信用しません。だから啓発する訳にも行かず、又啓発を受ける訳にも行かないのです。先生は何だか原稿の周旋を頼むために僕の宅へ出入りをする人のやうに思はれてならないのです)。その後へ例の豪傑滝田樗陰君がやつて来て、大きな皿をくれました。
あの人は能く物を呉れるので時々又呉れるのかと疳違して、彼の小脇に抱へ込んでゐる包に眼を着ける事があります。其代り能く僕に字を書かせます。僕はあの人を「ボロツカイ」又は「あくもの食ひ」と称してゐます。此あくもの食ひは大きな玉版箋をひろげて屏風にするから大字を書けと注文するのです。僕は手習をする積だから何枚でも書きます。其代り近頃は利巧になつたから、書いた奴をあとからどん〳〵消しにします。あくもの食ひは此方で放つて置くと何でも持つて〔つ〕ちまひます。晩には豊隆、臼川、岡田、エリセフ、諸君のお相手を致しました。エリセフ君はペテルブルグ大学で僕の 「門」を教へてゐるのだから、是には本式の恐縮を表します。其上僕の略伝を知らせろといふのです。何でも「門」を教へる前に、僕の日本文壇に於る立場、作風、etcといふ様な講義をしたといふのだから驚天します。みんなの帰つたのは十一時過ですから、君等に上る手紙は其儘にして今九月一日の十一時少し前から再び筆を取り出したのです。
偖〔さて〕久米君は高等学校生活のスケツチを書く目的でゐるとか何処かに出てゐましたが、材料さへあれば甚だ好い思ひ付です。どうぞお遣り下さい。今度の艶書も見まし。pointは面白い、叙述もうまい、行と行との間に気の利いた文句の使ひ分などがひよい〳〵ありますが、是は御当人自覚の事だから別に御注意する必要もありますまい、但しあの淡いうちにもう少し何かあつて欲しい気がします。艶書を見られた人の特色(見る方の心理及び其転換はあの通りで好いから)がもつと出ると充分だと思ひます。あれはあゝ云ふ人だと云ふ事丈分ります。然しあれ丈分つたのでは聊か喰ひ足りません。同じ平面でも好いからもつと深く切り下げられるか、或は他の断面に移つて彼の性格上に変化を与へるとか何とかもう少し工夫が出来るやうに考へられます。(「競漕」はあれ以上行けないのです。又あれ以上行く必要がないのです)
最後に芥川君の書いた「創作」に就いて云ひます。実は僕はあれをごく無責任に読みました。芥川君の妙な所に気の付く(アナトール フランスの様な、インテレクチユアルな)点があれにも出てゐます。然しあれはごく冷酷に批評すると割愛しても差支ないものでせう。或は割愛した方が好いと云ひ直した方が適切かも知れません。
次に此間君方から貰った手紙は面白かつた。又愉快であつた。に就いて、其所に僕の眼に映つたつた〔衍〕可〔よ〕くないと思ふ所を参考に云ひませう。一、久米君のの中に「私は馬鹿です」といふ句があります。あれは手紙を受取つた方には通じない言葉です。従つて意味があつさり取れないのです。其所に厭味が出やしないかと思ひます。それから芥川君のゝ中に、自分のやうなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないがといふ句がありまま〔衍〕した。あれも不可〔いけま〕せん。正当な感じをあんまり云ひ過ぎたものでせう。false modestyに陥りやすい言葉使ひと考へます。僕なら斯う書きます。「なんぼ先生だつて、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから又書きます」――以上は気が付いたから云ひます。僕がそれを苦にしてゐるといふ意味とは違ひます。それから極めて微細な点だから黙つてゐて然るべき事なのですが、つい書いてしまつたのです。
あなた方は句も作り絵もかき、歌も作る。甚だ賑やかでよろしい。此間の端書にある句は中々うまい、歌も上手だ。僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首位づゝ作ります。自分では中々面白い、さうして随分得意です。出来た時は嬉しいです。高青邱が詩作をする時の自分の心理状態を描写した長い詩があります。知つてゐますか。少し誇張はありますがよく芸術家の心持をあらはしてゐます。つまりうれしいのですね。最後に久米君に忠告します。何うぞあの真四角な怒つたやうな字はよして下さい。是でお仕舞にします。以上
九月一日 夏目金之助
芥川龍之介様
久米正雄様
1916-09-02 芥川龍之介
封書
先生
昨日 先生の所へ干物をさしあげました。あんまりうまさうもありませんが 召上つて下さい。それでも 大きな奴は少しうまいだらうと思ひます あの中へ入れた句は 久米が作りました。おしまひを「秋の風」とやつた方がよからうと僕が提議したのですが「残暑かな」とやらないと干物らしくないと云ふので ああ書いたのです。あれを中へ入れて 包んでから 久米が これでは句を見せたいので 干物を送るとしか見えないなつて 悲観してゐました。
あんまり干物の講釈をするやうで 滑稽ですが あれは 宿にたのんで こしらへて貰つたのです。出来上った所で 一体どの位する物だねときいたら 十枚三銭五厘とか云ひました。すると 久米が急に気が大きくなつて 先生の所へ百枚か二百枚送らうぢやないかつて云ふのです(先生の所へ 干物をあげると云ふ事は 二人の中のどつちが云ひ出したか
知りませんが 始から殆 脅迫観念の如く僕たちに纏綿してゐました。今になつて考へると 何故干物ときめたか 滑稽な気がします。)それを やつと五十枚に節約させたのは 完く僕の苦心です。いくらうまくつても 干物を百枚も二百枚も貰つては どこのうちにしろ 大へんだと思ったからです。所が あれを菰へいれて 小さく包んだ所を見ると 僕は何だか 久米の説に従つた方がよかつたやうな気がしました さうして 突然 ブレエクの Exuberance is beautyと云ふ句を思ひ出して いらざる苦心をしたのが 少し不快になりました。あとでは 妙な行きがかりで ブレエクを思出したのが ばかばかしくなりましたが。
これだけ 干物の因縁を書いて 次へうつります。
「創作」は六号にも書いた通り 発表を見合せる気の方が多かつた作品です それでも 誤植が気になる程度の愛惜はありますが 妙に高くとまつた所が 今では気になつていけません。
「猿」は もう少し自信があります。石炭庫の所は 書いてゐる時の心もちから云ふと 後から抱きとめる所までは 或充実した感じて〔感じで〕書けましたが 信号兵の名をよぶ所からあとは それが稀薄になるのを感じました。さうして その稀薄さが出るのを惧れたので 二三度そこだけ書き直して見ました。つまり先生はその稀薄さを看破しておしまひになつた事になるのでせう。僕は さう云ふ意味で あすこに 無理な努力があるのを認めます。やはり実感の空疎なのが だめなのだと しみじみ思ひました。技巧では 僕として 出来るだけの事をした気でゐるのですが。
「落ち」も 少し口惜しいが 先生の非難なすつた事を 認めざるを得ません。「口惜しいが」と云ふより「口惜しい程 明瞭に一々指摘してあると思つた」と云ふ方が 適切です あれもやはり叙述の簡単が累をなしてゐるよりは 主として 照応する二者の後にある主観が ふわついてゐるからでせう。書く時はふわつかないつもりで 書いてゐるのですか〔→ですが〕出来上つたものを見ると ふわついてゐるのだから 困ります。
創作のプロセスに 始終リファーしてゆく批評は 先生より外に 僕たちは 求められません。(僕たちがえらいから 先生以外の人の批評を求めないと云ふ意味ではありません。外の人たちの批評に さう云ふ痛切な〔僕たちに〕所がないのです。) ですから これからも御遠慮なく して頂きたいと思ひます。少し位 手痛く参らせて下すつても 恐れません。反て 勇気が出ます。久米がたくさん書いたさうですから 僕はこれで切上げます。
九月二日朝 芥川龍之介
梧下
1916-09-02 久米正雄
前便と同封。同種の原稿用紙を使用
月が変ると共に、海水浴に来る人もぐつと減つて了ひました。目前に眺める砂丘の半西〔半面〕も、日光によって色を変へるばかりでなく、草のすがれによつて本質的に色を変へつゝあります。吾々も此夏から秋へ移る避暑地の情調に飽満した形ちで、もう此地を去ることにきめました。これが此処から先生に差上げる最後の手紙です。此手紙を書いて、午飯を食つて、鳥渡海へ入って、それから晩涼と共に一宮川を下り、そのまゝ灯の賑かな東京へ着かうと云ふ予定なのです。而して着いたらすぐ、何をおいてもパウリスタの冷たいコーヒーを飲まうと云ふ提案が芥川によって提出されてゐます。僕は勿論賛成しました。
で此次の木曜日には、自分でも少しく黒すぎると思ふ顔を、御書斎へ運ぶことができるかと思ひます。
此前の手紙では、芥川が吾々の近況を非常にうまく、(うま過ぎる位うまく)叙述して呉れました。海水浴中の僕の行動なぞは、中にも巧妙を極めたもので、誇張を誇張と見せずに、あゝまでよく僕を描写して呉れたのは全く感服の外はありません。殊に海中の女性を点出し来つて、それに対する僕の朴素なる恋慕を暗示した点に至ると、彼も亦心理小説家なるかなと三嘆します。――惜しいかな、その二人の女性、僕らより以上に顔を黒くして波濤を背にうけてゐる女性は、月が変り、潮が冷たくなると共に浴場に姿を見せなくなりました。僕たるものゝ落胆は云ふ迄もありません。而して表面僕のために落胆してゐる如く見せかけ乍ら、其実自分自身のためにも可成り落胆をしてゐる芥川のより大いなる落胆は、心
あるものにはすぐ解ります。自分の惚れてる女を、友人が惚れてる如く表白すると云ふことは、よくある心理でございませう。此間芥川の機微は敢て今更先生に贄せずともとは思ひますけれど。
さて、かような訳で、海水浴場のざびれる〔さびれる〕と共に、さびれた中での感興の中心を順次に劣等な方へ移動させて来ると、昨今は、足の太い、日焦けを恐れて白粉を嫌が上にも塗りつけた、看護婦型女性の上に堕りてこなければなりません。さうなることは、僕らの、今の放埓な感情からは容易でせうけれど、まだそれには僕らの美的教養と、審美本能(?)が許しません。僕らの期を早めたる皈意〔帰意〕は、一面茲に胚胎しました。
昨日、春陽堂から芥川の処へ新小説が届きました。二人とも心配だつたから、早速読んで、他と比べてみました。芥川も安心してゐます。只田山さんのの、可成り充実した、手固い、淡彩の山水画を見るやうな味に、勁敵を見出したと云ヘば云へるでせう。(又こんな事を云ふと、牛の押す対手は文士でないとお叱りを受けさうですが、今日はとうぞ〔どうぞ〕お許しを願ひます。)期待してゐた谷崎さんのは、少し落胆しました。幹彦君のに至っては 申すのも野暮ですけれど、よくもあゝ破廉恥な材料を、無反省で書けたものだと思ひます。あれには奮慨しました。旅役者の心が荒んで、女に干係することなぞを屁とも思はなくなるのを書く事には、異議はありません。たゞその材料を取扱つてる彼の態度が、もし作者にして旅役者になったら、又平気でこれと同じことをするだらうと思はれるやうな態度なのが堪らないんです。――つい平凡な憤慨をして了ひました。
其後、芥川が一つ、僕が二つほど小さな小説を作りました。三つとも来月は、新思潮で読んで頂けることゝ存じます。私共は、私共の雑誌が、先生に読んで頂けるのが、何より嬉しくてなりません。
今月の御批評、私に就ての部分は、少しも異議なく頂戴しました。只、申訳と云ふ意味ではない申訳として、一言私の「実験」と云ふやうな試みを申しますと、あの中に出てくる艶書を見る二人の人物(僕と山口と)は、二人とも同型な人物で、つまり其同型の二人物の濃淡の重なりに依つて、一つの効果を挙げてみやうとしただけです。つまり作法上で私は私の蔭武者を一人使つたつもりなのですが、それはどの程度まで成功しましたか。それもお序の時、御批評を伺へれば結構で厶います。私は実は、そのエキスペリメントと夢中になって、艶書を見られる人の方なぞは、考へなかったんです。こんな点で私が「馬鹿だ」と云ふのも御承認ができますまいか。
併し私はこれからは先生の前で、要らない遠慮と謙遜は(その悪い意味での)しません。今迄だってしたと云ふ訳ではないのですが、先生にこちらの心事を見すかされるやうな作為は、やめて了ひます。前便の馬鹿云々は併し僕らが時々ひどく「参つて了ふ」(これは吾々の間の術語で、何物かの前に圧倒されて自己の狭小を感ずることを申します)時は、僕もそんな言葉を口にするのを、先づ大目に見て、而してそれから充分お叱り下さい。今度のお叱りにはほんとに参りました。殊に六朝文字の悪戯にお加へになった一撃の如き、ひどく手痛うございます。以後はもう決して致しません。人間のアクといふ奴はなか〳〵ぬけないで困ります。
今月の新思潮では、私は菊池の身投げ救助業を最も好みます。描写に、まだ菊池式の不銑錬があるでせうが、それでも狙った処ははつきり出てゐると思ひます。松岡のは描写はともかく、内容に少しく不満があります。兎に角、僕らが滔々として妙な小説を書いて行くのは、省みて「微苦笑」を禁じ得ません。行けるところまで此儘行ったら、きつと何かゞ生まれるでせう。芥川の猿には、彼には珍らしい詠嘆があつて、其かはり堅実を失ってると云ふのが僕の大雑把な批評ですが、彼はなか〳〵屈しません。何でも初めは「芋粥」より此方に自信がありさうな口吻でした。僕はさうは思ひません。猿は、父なぞと同じやうに、岡田君の所謂「有難い気のする」作品ですが、かう云ふものになると隙が見えます。
先づは之にて、あとは御目にかゝつた折、草々
九月二日 久米正雄
夏目先生
1916-09-02 夏目漱石
消印午後10-12時 千葉県一ノ宮一宮館 芥川龍之介様
啓只今芋粥を読みました君が心配してゐる事を知つてゐる故一寸感想を書いてあげます。あれは何時もより骨を折り過ぎました。細叙絮説に過ぎました。然し其所に君の偉い所も現はれてゐます。だから細叙が悪いのではない。細叙するに適当な所を捕へてゐない点丈がくだくだしくなるのです。too labouredといふ弊に陥るのですな。うんと気張り過ぎるからあゝなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイーヴな点に面白味が伴ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してべタ塗りに蒔絵を施しました。是は悪い結果になります。然し。芋粥の命令が下つたあとは非常に出来がよろしい。立派なものです。然して御手際からいふと首尾一貫してゐるのだから文句をつければ前半の内容があれ丈の労カに価しないといふ事に帰着しなければなりません。新思潮へ書く積りでやつたら全体の出来栄もつと見事になつたらふと思ひます。
然し是は悪くいふ側からです。技巧は前後を通じて立派なものです誰に対したつて恥かしい事はありません。段々晴の場所へ書きなれると硬くなる気分が薄らいで余所行はなくなります。さうしてどんな時にも日常茶飯でさつさと片付けて行かれます。その時始めて君の真面目は躍然として思ふ存分紙上に出て来ます。何でも生涯の修業でせうけれどもことに場なれないといふ事は損です。
此批評は君の参考の為です。僕自身を標準にする訳ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未来の)一言するのです。たゞ芋粥丈を(前後を裁断して)批評するならもつと賞めます。
今日カマスの干物が二人の名前できました。御好意を謝します。なにか欲しいものがあるなら送つて上げます。遠慮なく云つて御寄こしなさい。頓首
九月二日夜 夏目金之助
芥川龍之介様
此巻紙と状袋は例のアクモノグヒが呉れたものであります。彼は斯ういふ賄賂を時々刻々に使ひます。僕は彼の親切を喜ぶと共に気味をあるく〔わるく〕します。同時に平気で貰ひます。久米君へよろしく。
秋立つや一巻の書の読み残し
是はもつとうまい句だと思つて即興を書いてしまつたのであとから消す訳に行かなくなつたから其儘にして置きます。
あとがき
最近、ひそかに「漱石山脈書簡データベース」と名づけて書簡の書誌情報を目録化する作業を進めています。漱石の弟子筋には鈴木三重吉や阿部次郎のように立派な全集が出版され書簡類が掲載された者もいれば、森田草平は中断した「選集」があるのみで、小宮豊隆も全集はなく、歴史学で研究の進みつつある安倍能成も公刊した記事を集めた「選集」があるのみで書簡の収録はなし(安倍については青木一平氏が愛媛県生涯学習センター所蔵書簡の調査を行なっている)。
一方、最新の漱石全集はどうか。岩波書店が少々宣伝下手でさほど知られていないように思いますが、じつは『定本 漱石全集』は書簡の巻(第22~24巻)にかなり増補が加わっています。しかも第24巻の「人名に関する注および索引」では書簡に関する人名、略伝が詳しく記載されており、マイナーな人物の生没年をぎりぎりまで時間をかけて調査したことがわかります(たとえば不詳となっていた書簡番号2320の「岡本」を、第28巻月報の「正誤表」では、岡本橘仙(1869-1945)であると判明したとしています)。その背後にどれだけ地道で途方もない作業があったことか……。
ところで、一般に作家の書簡というものは、片道通行のようにしか読めません。往復のやりとりがあったとしても、有名な作家から来た手紙を後生大事に保存する人はいても、当の作家のほうは受取った手紙を無頓着に処分してしまうことがあるわけです。そういうわけで、漱石(による)書簡はまとめて読めますが、漱石宛書簡がまとめて読める書籍はありません。関連する作家の「宛書簡」ものとしては、『岩波茂雄への手紙』『木下杢太郎宛 知友書簡集』『志賀直哉宛書簡集 白樺の時代』『阿部次郎をめぐる手紙』などがあります。また、鴎外記念館が刊行を進めている 『森鷗外宛書簡集』は翻刻だけでなく専門的な解説記事が巻末についていて読み応えがあります。変り種として、『漱石の愛した絵はがき』も宛書簡集の一種ですね。
さて、漱石に宛てた書簡については、作家同士のやりとりの場合、差出人のほうの全集に書簡が掲載されていたりします。『漱石・子規往復書簡集』のような例外を除くと、往復書簡形式で読める出版物は少ない。(ちなみにNDL-OPACでタイトルに「往復書簡」を含む書籍を検索してみると、意外に往復書簡形式の出版物は多い)。ちなみに『「文豪とアルケミスト」文学全集』に「夏目漱石・芥川龍之介往復書簡」として有名な「牛になるのです」が読めるようにしてあります。秀逸な編輯ですね。入門書としてはこれでよいのですが、一緒に手紙を出した久米正雄が省かれていることが残念ではあり、既存の全集からの引用なので「はじめに」で言及したとおり本文に問題があります。
ところで、小倉孝誠「手紙を読む――ゾラの『書簡集』をめぐって」には次のようにあります。
フランスの出版界における近年の傾向として、大作家の書簡集に関しては作家が書き送った手紙だけでなく、その作家が受け取った手紙、さらにはその作家をめぐって第三者同士のあいだで交わされた手紙までも収集するという動きが目立つ。フランス語では Correspondance générale と呼ばれる。ヴォルテールやルソーに関しては、すでに1960年代からそのような試みが実現していた。19 世紀の作家をめぐる最近の顕著な成果としてはスタンダールの書簡集 (6 巻、1997 -99) ゴーティエの書簡集 (12 巻、1985 -2000)、ミシュレの書簡集 (12 巻、1994 -2001)、そして1995年に刊行が始まったエルネスト・ルナンの書簡集(現在のところ3巻まで刊行)などが挙げられよう。
大変魅力的な話ではあるのですが、問題は紙の出版物で往復書簡集のようなもの、あるいは第三者が作家についてやりとりした手紙まで含めるとなると、膨大かつ索然としたものになり、楽しみながら読むことが難しいように思います(=誰が買うんだ問題)。もし出版物にするならば、「誰と誰の論争を知りたい人は、何巻何番の書簡の次に何巻何番の書簡を読んでね」といったテーマ別のインデックスしおりのような付録がないと厳しそう。こうした問題の一部分は、紙の出版物を作るのではなく、データベースをつくるという方法で乗り越えられますが、それでもそのデータベースを使いこなす検索ワードやタグをインデックスにした付録「しおり」をつけて読み物として面白くする工夫はやはり要るかなと思っています。
で、「漱石山脈書簡データベース」を作るとしたら、煤煙事件や朝日新聞文芸欄の時期や、修善寺の大患、漱石の死の前後など、手紙のやりとりで面白いところは色々あります。また個人的には没後の『漱石全集』の成立過程や、それと同時期に進行する「破船」事件も理解を深めたいところ。あるいはこれも漱石没後ですが、小宮豊隆が太田水穂らと芭蕉研究を展開していく過程も書簡に度々出てきます(太田の芭蕉研究は最近刊行された島崎藤村と創作の論理 栗原 悠(著) - 有志舎 でも度々取り上げられているホットなトピック)。研究者的な関心はそういう細かいところにまで行ってしまうんですが、それはともかく、おそらく文学ファンにとって面白いのは作家同士の心のかよった交流だと思うんですね。バズらせるために誇張した「文豪本」もあるなかで、じゃあ私が何ができるかというと、おもしろい資料を翻刻してアクセスしやすい形でまとめることくらいかなと思っています。