秋頃、学会の物販ブースで予約を受け付けていた文化資源社の『読売新聞 よみうり抄』(読売新聞 よみうり抄 大正篇 よみうり抄研究会(編集) - 文化資源社 | 版元ドットコム)。すぐに申し込んだら予約第一号だったらしく、えらく喜ばれました。さいきん第一巻(1912~1914)が届いたので、これをさっそく活用してみようの巻。
最近わたくしは森田草平の書簡を読んでいるのですが、森田には「選集」があるのみで「全集」はなく、書簡をまとめて読むことが難しいです。ちなみに小説も手に入れづらい。パブリックドメイン化したとはいえ、国会図書館のスキャン画像で読むのはしんどいところ。森田草平顕彰会(旧森田草平記念館)の森崎憲司さんが『森田草平短篇名作集』『森田草平資料選』をお出しになり、各地の文学館などに寄贈されています。
そんな状況なので、森田草平の書簡がいったいどこにどれだけ残っているのか、手探りで調査をはじめたところです。
そのうちの重要な一部分が、小宮豊隆宛森田草平書簡。『森田草平の文学』(桜楓社、1976)の著者、故根岸正純氏が五回にわたり翻刻を大学紀要に掲載した小宮豊隆宛森田草平書簡は、現在は福岡県のみやこ町歴史民俗博物館に所蔵されています。
さて、根岸氏の翻刻はさすがに森田草平研究の第一人者だけあって、かなり精確で、注も示唆に富みます。しかし、書簡をまとめて写真撮影してからの作業だったようで、書簡によっては写真が不鮮明のため翻刻を断念したという箇所があります。また、いまなら国会図書館のデジタルコレクションやヨミダス、ジャパンナレッジなどが簡単に活用できるため、当時根岸氏が注で「未詳」とした部分や、そもそも注をつけていない箇所も、いろいろ新たにわかってくることがあります。
そういうわけで以下根岸氏の翻刻・注解に対してあらたな付け足しをするのですが、それは時代の変化のぶんだけ私が有利だからできたことに過ぎません。作家・作品の総合的な理解は、根岸氏の足下にもおよびません。これはほんとうです。
では森田草平の書簡を引用します。
一四七 〔1912年〕十二月五日本郷区森川町一番地宮裏柳瀬方 小宮豊隆様 急用
十二月五日牛込矢来町六十二 森田草平(葉書)
○次郎へは明日の事君より話があつた位に考へて居たが、改めて案内出すには大森の番地を紛失した。至急君からひとつ出して置いて貰へまいか
○鈴木が返事も何もよこさぬ。永久にケンカして仕舞つても可いが、後で仲直りする位なら明日来て貰ひたいと思ふ。君一つ何とかして貰へまいか
○安倍の妹の時にもゲシェンケ*1を送らうとして果さず、今度は一つ実行したいと思ふ。僕は煙草盆を送らうと思つて居たが、冬だから火鉢の方がよからうと云ふ話。処が火鉢では一対十円也。どうだ、共同してくれないか。今一人有つても可い。
小宮豊隆宛森田草平書簡を読んでいくと弟子達(通称「漱石山脈」)の人間模様がみえてきて面白いのです。
次郎は阿部次郎。このころすでに『三太郎の日記』のもとになる日記形式の記事を新聞掲載していましたが、本にまとまって売れて、いわゆる大正教養主義のバイブル化するのはこのあとですね(cf.松井健人「教養小説『三太郎の日記における読書の意義」)。鈴木は鈴木三重吉で、安倍は安倍能成。
ここで根岸氏が注を付けているのは「ゲシェンケ」。学歴貴族の栄光と挫折 (講談社学術文庫)でも描かれたエリート文化の片鱗たるドイツ語の仲間言葉化です。ここではすこしもったいぶってドイツ語にしている感じでしょうか。ほかにも書簡類のなかで、お金や女性関係などの話題でわざわざドイツ語を持ち出す表現がみられます。
ただ、前後の書簡を読んでも第一項目、第二項目でいう「明日の事」がなんなのかは不明です。ついでにいうと第三項目のお祝いも何のお祝いを共同購入するのか不明です。
そこで『よみうり抄』の出番。1912年12月5日前後の記事を確認してみると……
森田草平のこのときの妻は岩田さく。書簡では「いね」と自署することもあったようです。また『煤煙』のお種のモデルであるため、仲間内でお種さんと呼んでいることもあります(cf.根岸正純「森田草平『煤煙』と『自叙伝』」)。舞踊のほうでは藤間勘次と名乗っており、同門に永井荷風の愛した藤間静枝がいます(ときどき静枝も書簡にでてくる)。舞台を新設したといってもおそらく小規模なのではと思いますが、詳細は別の文献、資料から裏付けをとっていかないといけません(『よみうり抄』は伝聞が書いてあるので裏取り必須)。ともあれ舞台開きが12月6日にあるため、草平が友人を招いたことはわかりました。ついでに仲直りもしたかったんだね。
ちなみに12月12日の小宮宛草平書簡には「先日は有難う、其後祝つてくれた人々に対して鳥の子を送る計画を立てゝ居たところ、大分欠損を生したから友人だけは返礼を無期延期にした」とあり、根岸氏は自明として注を付けなかったのかと思いますが、私は「鳥の子」がわからなかったので調べました。「鳥の子餅」といって、紅白まんじゅうみたいなものです((鳥の子餅……鶴 (つる) の子餅ともいう。祝儀用の紅白餅で、鳥の卵のように楕円 (だえん) 形につくるところからこの名がある。また鳥のなかでも鶴は長寿を保つというので、鶴の子餅ともよばれて好まれた。糯米 (もちごめ) をふかして臼 (うす) に移すとき、紅餅の分にだけ食紅を加え、搗 (つ) き分けて卵形に整えるが、砂糖が潤沢になるにつれ、素甘 (すあま) のように甘くこしらえるようになった。祝儀の配り物としては大きな紅白餅を1個ずつ並べるか、重ね餅にするが、重ねにする場合は紅餅を上にする。また小餅を重詰 (じゅうづ) めにすることもある。(日本大百科全書)))。祝ってもらった御返しをしようとおもったけど、やっぱ友達だからイイヨネ! というわけです。
ふたたび『よみうり抄』をみていくと、もうひとつ発見。
12月19日 ▲安倍能成氏 来る二十二日故藤村操の令妹と華燭の典を挙ぐる由
第三項目の「今度」のお祝いとは、安倍能成の結婚だったと。しかも『学歴貴族の栄光と挫折』でも言及された、華厳の滝に飛び込んで自殺した一高生藤村操(ちなみに漱石の教え子)の妹との結婚です。草平はそのお祝いに仲間で何か共同購入しようと持ちかけていたわけです。
ただし、書簡内でも安倍の結婚式のお祝いだという点は答え合わせできます。12月16日の小宮宛草平書簡には「○安倍は火鉢は大家さんから貰つた相だから机がほしいと云つて居た。自分が忙しいので其侭にして居る。」とあり、12月27日の小宮宛草平書簡に「拝啓 新婦新郎へは机と椅子とを送つて置いた、(昨廿六日)価机十円五十銭椅子三円五十銭(新郎に云ふべからず) 諸君が新郎宅をたづねた時に一見せられたし」とある。とはいえ、阿部次郎『三太郎の日記』が連載された『読売新聞』上でこの結婚が報道されているというのが面白いポイントです。
漱石の弟子達について、ある時期まで私は嫌悪感というか、苦手意識をもっていました。「漱石山脈は死火山だ」という手厳しい言葉や(本多顕彰、大宅壮一)、文学部をめぐる病い: 教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫 た 51-1あたりを読んでいるとどうにも先入観を抱いてしまうというか。それを変えてくれたのが香日ゆらさんの『先生と僕 夏目漱石を囲む人々』。以来、漱石の弟子達のことを調べて、漱石没後に『漱石全集』がどんな欲望と手作業によって形作られていくのかをコツコツ調査しています(つぎの本を書きたい)。
こういう調査の楽しみ方はいまや誰にでもできるので(有料データベースは地域の大きな図書館で借りましょう)、先行研究にリスペクトをささげつつ、いろんな人に楽しんでほしいなと思うわけです。
*1:注1 ドイツ語Geschenk (「贈物、進物、祝儀」の意) の複数形。


