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なんだか呼ばれてるきがする

橋本陽介『物語論 基礎と応用』をテキストにする際の注意点

 畏友橋本陽介さんの物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)を授業で毎年つかっているので、毎年受講生に述べる注意点を一度、文章にしておこうと思う。

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

 

 刊行以来、ずっと何かの授業ではテキストや参考書に指定しており、大変たすかっている。それまでは図書館で『続・物語のディスクール』巻末の解説を使っていた。

 著者の主著『物語における時間と話法の比較詩学 日本語と中国語からのナラトロジー』で詳説する日本語ならではの語りの問題についても、そのエッセンスがおしげもなくわかりやすい形で示されており、『物語論』の応用として日本文学を読み解く学生の助けになっていると思う。

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 ただ、毎年一カ所、テキストの訂正で30分くらい説明が要る箇所がある。『物語論 基礎と応用』ならp.47、泉鏡花高野聖』を例に、等質物語世界的/異質物語世界的の区別を説明するところだ(『ナラトロジー入門』にも類似の記述があったとおもう)。

 橋本さんは、『高野聖』内で旅僧が語る不思議な体験はあきらかに現実ばなれした幻想であるから「異質物語世界的」としているけれども、ここは字面に引っ張られた小さなケアレスミスだと思う。

 この区別は、『物語のディスクール――方法論の試み』(花輪光・和泉涼一訳、水声社、1985)p.292で次のように整理されている。

 どのような物語言説であれ、語り手の境位を定義するにあたって、その語りの水準(物語世界外か物語世界内か)と、物語内容に対する語り手の関係(異質物語世界かそれとも等質物語世界か)とに同時に着目するなら、語り手の境位は左図の通り、縦軸と横軸からなる相関表により、四つの基本的タイプとしてあらわすことができる。①異質物語世界外のタイプ。範列――自分自身は登場しない物語内容を語る第一次の語り手ホメーロス。②等質物語世界外のタイプ。範列――自分自身の物語内容を語る第一次の語り手ジル・ブラース。③異質物語世界内のタイプ。範列――自分自身は概して登場することのないいくつもの物語内容を語る第二次の語り手シャハラザード。④等質物語世界内のタイプ。範列――自分自身の物語内容を語る第二次の語り手である、第九歌から第一二歌までのオデュッセウス。右の体系において、『ジャン・サントゥイユ』の物語言説のほぼ全体を語る(第二次の)語り手すなわち虚構の小説家Cは、異質物語世界内として、シャハラザードと同じ区分にはいる。これに対して『失われた時』の(唯一の)語り手は、等質物語世界外として、(縦横の両軸がどのように配置されようとも) Cとは正反対の(つまり対角線に沿って反対の)区分、すなわちジル・ブラースと同じ区分にはいる。

 つまり異質/等質というのは、物語内容の世界観の質的な差異(現実的な世界と幻想的な世界)ではなく、「物語内容に対する語り手の関係」の差異を指す。どういう関係の差異かというと、物語内容に語り手が自分自身として登場するか否かという違いということになる。

 一人称小説/三人称小説という区分けは不適切だから、上図の四象限の区分けに替えようというのがジュネットの提案。なぜなら、いわゆる「三人称小説」は、潜在的には語り手が自分のことを「私」と名指しうるという意味で、すべての語りは一人称でしかありえないから。また、小説の人称を選ぶのは作者ということになるけれども、作品は入れ子構造になっていることがある。作中人物による語りについて説明する際に「一人称」「三人称」という区別だと説明がしにくい。作品全体の語りについても作中に埋め込まれた語りについても、統一的に議論できる道具立てがほしいということになる。

 引用文に「第二次の語り手」とあるように、地の文を語っている人(第一次の語り手)とは別の人物が、面白い話(メインディッシュ)を語る人(第二次の語り)になることもある。『高野聖』はこのパターン。

 全体のベースとなる物語(第一次物語言説)は「私」の語りで、旅籠で旅僧と同宿したことが描かれる。そこにはめ込まれるピース(第二次物語言説)として、会話シーンの旅僧の発言だけが肥大化し、事実上、旅僧が第二次の語り手となり、自身が山奥で体験してきたことを語るのだ。

 このとき、全体を語る第一次の語り手「私」とその物語内容(私と旅僧の同宿とその会話)との関係は、上記の区分でいう③自分自身の物語内容を語る第一次の語り手、図ではジルブラースの位置にあたる。

 なお物語世界内/外は「水準」の問題で、以下のようにある。

第一次物語言説の語りの審級は、それゆえ、定義上、物語世界外に位置し、同様に第二次(メタ物語世界的)物語言説の語りの審級は、定義上、物語世界〔内〕に位置する、等のように言えよう。(268)

 『高野聖』は全体が「私」の人称で統轄されており、「私」は虚構の作者として読者と接する存在といえる。『高野聖』のベース部分をなす言葉たち(物語言説)は、物語世界外から発せられている。どういうことかというと、「私」が読者にむけて言語能力を駆使してある夜の体験を語ろうと試みているその瞬間「いま・ここ」は、物語世界の外側にある「いつか・どこか」なのだ。

 他方、物語のなかの作中人物「旅僧」を第二次の語り手としてとらえるとき、彼と彼の語る物語内容との関係は、自分自身の体験を語っているのだから、④自分自身の物語内容を語る第二次の語り手、『オデュッセイア』第9-12歌のオデュッセウスのパターン、物語世界内における等質物語世界的な語りということになる。

 上記の整理からもわかるとおり、一人称小説/三人称小説という区分が作品全体を白か黒か一色で塗りつぶすような扱い方をするのに対し、ジュネットの語法だと物語を語りの入れ子構造とみなし、その構成要素間の関係を説明するのに便利だということがわかる(ベース物語に物語ピースがはめ込まれ、そのピースもまた別の物語をはめ込むベースとなりうる。ベースとピースに同じ人物が登場するのか否か……)。

 ところで、作中人物にも虚構の作者としての役割を認めたり、主人公ではない作中人物にも第二次の語り手としての役割を認めたりするからといって、ジュネットが生身の人間としての作者への言及を禁じているということにはならない。個人的には、意地でも作者に言及しないタイプの作品解釈論文(作中人物を虚構的な作者として扱い、その人物の語りの企みを論じるとか)を読むと、地面から浮いて二階だけが存在する建物のような感じがして、もどかしく思う。「作者の死」と受容年代が重なったせいなのかな。わたしたちはなぜ、存在しない人間や、起ってもいない出来事について真剣に議論を重ねているのだろう。これは皮肉ではない。人類が古来やってきたことなので、気になってしかたがないし、だからそれに携わっているのかもしれない。