文芸誌をほとんど読んでいない不心得者ですが、今私が調べていることに関係する短いエッセイが訳出掲載されていました。
3頁のごく短いエッセイなのであまり説明すると中身全部になってしまいますが、面白いのにあんまりネット上で反応も見受けられないので紹介します。
林紓(りん・じょ/Lin Shu)は古典に通じた文人で、中国近代の外国文学受容に大きな功績を果たした「翻訳者」でもあります。しかし、ここからが面白い。引用します。
彼は実のところ外国語など一つも話せず、読めもしなかった。それぞれの外国語を習得した(あるいは少なくとも、そういうふうに見なされている)助手たちに、それぞれの原書を読みながらどうにかできるだけつっかえずに口語でその内容を口述させたのだという。そして林紓の研究者(数は実際それほど多くないが)の精鋭たちが語るところでは、林紓はそうやって把握した内容を、能う限り忠実に楽譜を演奏するように、文語で綴りなおしていった。自分自身のメロディやリズム、文体を抑えて、物語の流れを優先して。彼は、己のみを恃む身でありながら、他人の目を通してどんな言語でも読むことができるという驚くべき能力を持っていたわけだ。
歴代十九人の助手たちの力を借りて、彼が翻訳したーーというよりも書きなおした西洋文学の古典は、二百作品ちかくにもなる。バルザック、シェークスピア、大デュマ、小デュマ、トルストイ、ディケンズ、ゲーテ、スティーヴンソン、イプセン、モンテスキュー、ユゴー、チェーホフ、ロティ。そのうちの何作かは二十世紀初頭の中国で大ベストセラーにもなった。
これだけでも大変面白いのですが、このエッセイはここからがミソ。いつものやり方で英訳版『ドン・キホーテ』を助手に読み上げさせていた林紓先生、しかしこの助手が文言を勝手にはしょったり、アドリブを挿入しはじめて……。
というわけでエッセイのタイトルがほのめかすところも判明するわけです。
ところで、こんなタイトル、こんな内容で、ふっと疑念を催したのは、ほんとにグタールトなる人物はいるのか? ということでした。翻訳底本も書いてないし。
雑誌巻末によると、
・ミカエル・ゴメズ・グタールト【みかえる・ごめず、ぐたーると】翻訳者、文芸批評家。81年生。ルソー、メルロ=ポンティの西語訳、ウナムーノ、ピザルニクの仏語訳など。
ネットで検索してみたところ、お名前はMikaël Gómez Guthartと綴り、お写真やルソーのスペイン語訳のページも見つかりました。
がっかりしたような、安心したような。
(今回のエッセイの翻訳底本はフランスの文芸誌なんだと思いますが、同エッセイは英語やイディッシュ語、イタリア語など色々な言語に訳されて、ネットで読めます)