Call of Unread Books

なんだか呼ばれてるきがする

『定本漱石全集』第13巻で論文が紹介されました

 現在刊行中の『定本漱石全集』のなかで、私の論文が紹介されました!

英文学研究 (定本 漱石全集 第13巻)

『定本漱石全集』の注釈セクションでは作品ごとに総説が付されています。以下は『英文学形式論』についての総説(山内久明)。

 『英文学形式論』

『オセロ評釈』でも触れるように、東京帝国大学文科大学英文学科における漱石の講義は作品講読と講義とに大別されるが、「英文学形式論』(原題「英文学概説」明治三十六(一九〇三)年四-六月)、『文学論』(原題「英文学概説」*1明治三十六年九月-三十八年五月)、『文学評論」(原題「十八世紀英文学」明治三十八年九月-四十年三月)の三つの講義は三部作を成す。いずれもロンドン留学以来懸案の計画実現のための努力の産物で、『文学評論』が通時的文学論、前二者は共時的文学論の試みといえる。また『文学論』が「内容」を、『英文学形式論』は「形式」を論ずる。そのさい漱石は、「一個の夏目」(二〇五頁一行)として、すなわち『私の個人主義』(本全集第十六巻所収)で述べるところの「自己本位」の立場に立って論ずるのである。その結果として、英文学研究における普遍性確立のための理論化が推し進められる一方で、個別的作品分析を通じて実践批評の妙味が遺憾なく発揮されている。

『文学論』『英文学評論』と同様、漱石自筆の講義録が残っていない『英文学形式論』は、皆川正禧が自身の受講ノートをもとに他の三名の受講ノートと照合して編纂、刊行された(本巻「後記」参照)。皆川が参照していない受講ノートとして、森巻吉(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部駒場博物館所蔵)、岸重次(金沢大学附属図書館岸文庫所蔵)、若月保治(山口大学附属図書館若月紫蘭文庫所蔵)、金子健一一(金子三郎編『記録東京帝大一学生の聴講ノート』リーブ企画、二〇〇二)のものがある。服部徹也「帝大生と『文学論』ーー漱石講義の受講ノート群をめぐって」(『近代文学合同研究会論集』第十二号、近代文学合同研究会編、二〇一六年一月)をはじめとする服部氏の一連の論文参照。

以下に、『英文学形式論」との関連において森ノートについて概観する。

 『定本漱石全集』第13巻 英文学研究(岩波書店, 2018-07-24), p.677

 こんな具合。

 文学研究は基本的に孤独な作業で、大海にむけてメッセージを書いた壜を投げ入れても、返事が来る事はあんまりありません。ありがたいことです。

 挙げて頂いた論文は、ネットから本文PDFを読めるようにしてあります。(以下のリンクよりどうぞ)

服部 徹也「帝大生と『文学論』ー漱石講義の受講ノート群をめぐって」『近代文学合同研究会論集』(12), 28-50, 2016-01,近代文学合同研究会

 漱石の授業を受けた学生達のノート、学生達の略歴を紹介し、ページ順がぐちゃぐちゃになったノート束を整理し、漱石自筆ではない資料を用いることで『文学論』などの研究がもっと進むのではないか?(そもそも漱石研究にかぎらず、受講ノートって面白い資料じゃない?)というような話をしています。

 この論文は同人誌に発表した論文のため、どれだけの漱石研究者に読まれているのか長いこと不安でした。以前、小澤純さん(芥川龍之介太宰治研究の専門家で、芥川「鼻」と漱石『文学論』との関係を論じた論文*2もお書きになっています)が『図書新聞』で以下のように言及してくださった時には随分と励まされました。

最近、実証的研究で興味深い成果があった。『近代文学合同研究会論集』(二〇一六・一)掲載の服部徹也「帝大生と『文学論』―漱石講義の受講ノート群をめぐって―」と余吾育信「漱石の父・母の「家」―馬場下横町の名主・内藤新宿の質屋―」である。前者は全国に散らばる受講ノートを丹念に吟味して講義内容を再現しようとし、後者は一族の来歴を検証するために菩提所の台座に刻まれた文字にまで目を配る。(略)漱石という存在の全貌を究明するためには、こうした緻密かつ慎重な作業にもっと光を当てるべきだし、(以下略)

小澤純「(書評)荻原雄一著『〈漱石の初恋〉を探して:「井上眼科の少女」とは誰か』」『図書新聞』(3257号) 2016-05-28

  ちなみに、同時掲載された余吾さんのご論文は、漱石の家系について論じるならば必携の論文です。系図も載っています。掲載誌の通販方法については合同研究会blogをご参照ください。

 

 さて、『定本漱石全集』の総説では森ノートの特徴として講義の「序論」に言及がありますが、これは翻刻・翻訳を付したものを刊行し、このブログでも紹介しました。

bungakuron.hatenablog.com

 この「序論」は『英文学形式論』や『文学論』に関わるだけではなく、その後の小説『野分』や『三四郎』、演説「私の個人主義」にまで関わる興味深いものです。しかし、この「序論」も、形式論についても漱石の生前には刊行されませんでした。

 『文学論』のほうは、漱石が目をとおしてまとめた本であり、「私の個人主義」でも自分の学問の成果として言及されるなどの理由から、くわしく研究が行われてきました。しかし、もとは『英文学形式論』と『文学論』とは、ひとつづきのプロジェクト(General Conception of Literature)だったわけです。

 このプロジェクトの全体像を理解するために、最も有用な1冊は間違いなく山本貴光『文学問題(F+f)+』(幻戯書房, 2017-11)です。ピンポイントで現代語訳が付してあり、それらを押さえていくと全体像がわかるってな寸法です。幸福なことに、著者山本さんと対談する機会もありました。

文学問題(F+f)+

 ちなみにおなじく山本貴光さんの新著『投壜通信』(本の雑誌社, 2018-09)には、漱石「余が一家の読書法」の現代語訳も載っています。

投壜通信

 その他、最近刊行された塚本利明『漱石と英文学Ⅱ:『吾輩は猫である』および『文学論』を中心に』(彩流社, 2018-08)は第七章で100頁以上にわたり『文学論』を論じています。こちらは漱石が創作や理論的考察の元ネタにした英文学や学術書を特定していくという「材源」研究です。

漱石と英文学 II: 『吾輩は猫である』および『文学論』を中心に

 この本は熟読玩味して、私の博論のリライトに活かしたいところです。いずれ本の形でお目に掛けられるよう、精励します。(明日から本気だす)

*1:漱石は自分の講義のことを"General Conception of Literature"または"文学論"と呼んでいました。この点は鈴木良昭『文科大学講師夏目金之助』(冬至書房, 2010)に詳しいです。

*2:CiNii 論文 -  「鼻」を《傍観》する : 夏目漱石『文学論』を視座にして