Call of Unread Books

なんだか呼ばれてるきがする

ジョナサン・カラー(1975)の「馴化」

 前回のブログをご覧になった橋本陽介さんから、「二冊あるからあげる」とFludernikのTowards a 'Natural' Narratologyを頂いたので、序章と第一章を読みました。まだよくわかりません。でも、結構好きなタイプの議論な気がするので、もう少しじっくりよんで、同書に対してどのような応答が行われているのかも調べていきたいと思っています。

 Towards a 'Natural' NarratologyStructuralist Poetics: Structuralism, Linguistics and the Study of Literature (Routledge Classics)

 

 

 わからないことだらけなので、フルダーニクの中心的概念「Narrativization」の着想源のひとつだという、ジョナサン・カラーのNaturalization(「馴化」と訳したらどうかな~)について調べてみた。

Jonathan Culler (1975, 2002) Structuralist Poetics, Chap. 7 Convention and Naturalization

[...] the fundamental paradox of literature: we are attracted to literature because it is obviously something other than ordinary communication; its formal and fictional qualities bespeak a strangeness, a power, an organization, a permanence which is foreign to ordinary speech. Yet the urge to assimilate that power and permanence or to let that formal organization work upon us requires us to make literature into a communication, to reduce its strangeness, and to draw upon supplementary conventions which enable it, as we say, to speak to us. The difference which seemed the source of value becomes a distance to be bridged by the activity of reading and interpretation. The strange, the formal, the fictional, must be recuperated or naturalized, brought within our ken, if we do not want to remain gaping before monumental inscriptions.

(pp.156-157)

  普通の話し言葉にはない奇異な点(strangeness)があるから人は文学に惹かれる。でも、文学を理解しようとすると、コミュニケーションを成立させるために、親しみやすい理解のパターンに落とし込むための慣習(conventions)ができていくよねという話。わかる文脈に回収(recuperation)せざるをえない。フルダーニクによれば、カラーはこうした読者の読解戦略をシクロフスキーのいう「異化」の逆バージョンとして、「馴化」(naturalization)と呼んでいる。

 たとえば、ロブ=グリエの作品を精神病者の語り手の物思いやお喋りとして解釈する、といったように、枠にはめると、わかった気になる。この作者はこうなんだよ、と作者毎に、あるいは時代やジャンルごとに読み方の慣習ができたりする。読者が作品を真に迫っていると感じるときは、こういう慣習がじつはうまく働いている(カラーは同章でこうしたテクスト理解の方法とそれがもたらす迫真性を5段階に分類して説明している)。

 ところでカラーは同書でそれより二年前に刊行されたロラン・バルト『テクストの楽しみ』Le Plaisir du Texte (1973)に言及しているけれど、同書の「回収(Récupération)」という章には、次のような記述があった。

 

ロラン・バルト『テクストの楽しみ』「回収」(鈴村 和成訳、みすず書房、2017), p.110

アヴァンギャルドというのは、やがて回収される、こうした強情な言語である)。(略)パラダイムの両項は最終的には共犯の関係で互に背中あわせになる。抗議する形態と抗議される形態のあいだに構造的な同意がなされるのだ。

テクストの楽しみ

 実験的な作品とそれを回収(理解)しようとする読者との共犯的な運動のようなものだろうか。カラーによれば、文芸批評家が文学を語ろうとするときも、「馴化」のメカニズムからは逃れがたい。できるのはせいぜい馴化の先延ばしなのだと言う。

 カラーだけでも面白い議論だと思うのだけど、ここにフルダーニクは読者の身体性を持ち込みたいらしい。